天皇って何?象徴って何?

象徴天皇制

天皇の即位があったからだろうか、そもそも論が展開されている。

「天皇って何?」とか

「象徴って?」とか

これは…ちびっ子が繰り出す質問である。

 

実際に私は子供の時、この質問を大人にした覚えがある。

この手の質問に対して、大人というのは分かったように説明はするが、正直な所大人の方もあまり分かってはおらず、質問攻めにすると怒られるのでほどほどの所で質問する事は控える事とするのが、子供なりの大人のプライドへの忖度であり、子供なりの世渡りだ。

そのため、この手の事は分ったようなフリするのがベストなのである。

だから、大人になった今でもコレについて質問する大人が続出するわけである。

天皇という存在

『天皇』という存在を、ちびっ子だった時に理解した。

自分なりに。

 

小さい子供に分りやすく例えて説明された。

まあまあロクでもない説明だ。

天皇は『砂山に立てた棒』だと。

棒が傾いたら、それは棒がどうにかなったんじゃなくて砂が崩れてんだよと。

砂がちゃんとしてて初めて棒が立ってられるんだと。

棒自身は自分が傾いてもどうにもできないんだと。

 

そして最後にこう説明を受ける。

「存在に意味はないけど意味はある」

このよく分からない説明が一番私にはよく分かった。

『存在に意味はないけど意味のある棒』

なんやねん、それ…って感じだがな。

象徴としての在り方

「象徴としての在り方を模索」

こういう風に表現すると、その言葉のまま天皇のあり方を考え始める日本人。

お前ら、そこに介入していくか…。

 

棒(天皇)を支えているのは砂粒(国民)である。

天皇が象徴としての在り方を考えながら責務を果たすという事は、国民は自分自身の在り方を考えて行動しろって事じゃねぇの?

 

象徴って、抽象的な物を具体的にコレって決めつけたもの。

具体的に言うと『天皇』であって、抽象的に言うと『国民』って事でしょ?

自分の在り方を問いながら生きていけ。

私にはこういう意味に聞こえるんですわ。

 

天皇に象徴としての在り方を問うなんて事をすれば、天皇陛下を迷走させてしまいそうだ。

問うなんて事こそしないが、なぜお前が考える必要がある。

人を問い質す前に、各自自問自答しませう。

 

っつうか、『天皇=日本の国』であって、『天皇=国民』なわけで…

スッゲー簡略化して表現すると

『天皇=お前(自分)』の事なのよ。

 

被災地に訪問するのも、天皇陛下が訪問する事で、国民全員が訪問した事になるんでしょ。

『天皇=国民全員』が訪問しましたって事。

国民全員が気にかけてますよ~心配してますよ~って事だよ。

象徴はあり方を模索してしまう

象徴ってのは、人の意識が作り出すものだと思う。

象徴を作り出す側の人間は、人よがりでいい加減な性質の人だと思う。

「あの人がどうにかしてくれる~」

「あの人は偉い人だから~」みたいな感覚を常に持っている人。

こういう人は、特定の『あの人』という存在を作り出す。

その特定の『あの人』こそが『象徴』である。

 

たかが会社組織ですら『象徴』がいっぱいいるから。

なんもかんも『象徴』さんにどうにかしてもらう算段の人達ばかりだから…ね。

 

象徴天皇制に反対する人もいるようだが…。

象徴を欲しがり作り出してしまう性質を持っている以上、無くしても意味がない。

天皇制を廃止しても、天皇が無くなるだけで象徴となる人間は次から次に生まれる。

どうあるべきか考えながら熟してくれる人がなってくれるのが一番いいんじゃないの。

 

『象徴』はどうあるべきか…。

これに悩んでしまうのは、象徴となった人と象徴を仕立て上げる人の考え方が平行線をたどるため、答えは無いに等しい。

「象徴はこうあるべき」という自分の理想を押し付けられ続けるのが、象徴の宿命みたいなもん。

象徴を欲しがる人は、象徴をこのように扱う。

象徴=自分の理想通りじゃなきゃいけない人

「こうじゃなきゃいけない」「ああじゃなきゃいけない」

キリがないんだよ…。

 

私が管理職になった理由は、周りの社員の意識がそう仕向けたからだった。

もともと存在しない枠だった。

「あの人がやってくれる」

「あの人がどうにかしてくれる」

社員達の身勝手な意識が言動になり、私はその身勝手な意識で管理職という象徴になった。

 

管理職という象徴になった私は『見本』になろうとしていた。

象徴を作り出した社員は『自分の理想を叶える人』だと私の事を思っていた。

捉え方が全く違うんだよ。

自分は他の社員の代表だと思っていたが、周りの社員は自分にとって都合のいい人だと思ってた。

 

何もしない自分を棚に上げ、自分の代わりに全てをやってくれる人。

象徴は、身勝手な自分にとって都合の良い存在。

象徴は、自分にとって理想的でなくてはならない存在。

自分の都合に合わせて同一視して賞賛したり、投射して否定したり…。

 

自分の勝手で象徴を作り出して、自分の勝手で利用しようとして、自分の勝手で存在まで問われる。

これが『象徴』の在り方。

周りの奴らの、為すがまま…。

象徴は『砂山に立てた棒』

自分ではどうする事も出来ない。

自分のあり方

象徴は『砂山に立てた棒』

象徴である棒はそこにあり続けるのが棒としての役目。

砂粒はそこにあり続けるのが砂粒としての役目。

 

棒が傾くのは、砂山が崩れたから。

棒が倒れたなら、砂山は無くなっている。

棒はただそこにあり続けるだけ。

 

砂粒が棒の在り方について考える必要などない。

砂粒が考えるのは、砂山と砂粒としての自分の在り方だけ。

 

「象徴としての在り方を模索しながら~」って天皇が言ったっちゅうことは~

天皇=国民全員なわけで~

国民が各々自分の在り方考えながら生きてけよっちゅう事や。

砂粒のお前らが自分の在り方考えてくれへんかったら、象徴の棒が倒れるぞっちゅう事や。

 

「自己研鑽する」って象徴が言うたら、自分が「自己研鑽」せなあかんねん。

「自己研鑽する」って象徴が言うたら、「あの人、自己研鑽するって」って他人事。

そういう他人よがりで他人に自分の理想を求める人が、『象徴』を作り出す張本人だよ。

『象徴』を作り出して崇める人間と、『象徴』になる人間って、根本的に考え方が真逆なんだよね。

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